石巻の復興祈念公園「追悼と鎮魂の丘」…かぁ。

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昨日は石巻のこのローカルニュースで、いよいよ復興祈念公園構想が本格的に動き出したことを知りました。有識者なる方たちが審議していらっしゃいます。

NEWS石巻かほく:海望む「追悼と鎮魂の丘」に 石巻・南浜地区復興祈念公園の基本構想案|メディア猫の目

(1)石巻市にとどまらず被災地全体の要となる復興祈念公園と位置付け、犠牲者への追悼と鎮魂の場を構築し、祈りの空間を整備
(2)被災の実情と教訓を後世に伝承し、他の復興祈念公園やアーカイブセンター、震災遺構との連携を図る

どうもお役所的文章に出てくる「鎮魂」という言葉は、妙に空々しく聞えてあまり好きではありません。なにやら箱物的なにおいもします。再び「石巻文化センター」みたいなものができるということすでしょうか。7m盛土して丘を作って祈りの場を新たに作り、「式典」のできる広場も整備。祈りの場は日和山では足りないのかな…。

がれきに覆われた地に郷土の樹木を植え、美しい森へと時間をかけて再生し、復興への強い意志を国内外に発信する復興の象徴として整備することや、市民、NPOなど多様な主体が公園の計画段階から管理運営段階を通して植樹活動や防災学習などに参画・協働する場を構築することも掲げている。

なみに地区には今「がれき」はほとんどありませんが、「当時」という意味でしょうね。わあ、「植林」して森にするんですか…。公園の街路樹のようになりませんように!

しかし郷土の樹木ってなんでしょう。もともとはこの地域は湿地帯ですから、自然を元のように「再生」するという意味なら、湿地帯に戻してヨシ原にすべきところです。ただ昭和の中ごろまでは雲雀野海岸にも松原があったそうですから、海岸に松でも植えるのかもしれません。岩沼ではシラカシやタブノキを植えたそうですが、塩害もあって定着には時間がかかるようです。

河北新報 東北のニュース/緑の防潮堤、枯死の危機 岩沼沿岸6割が生育遅れ

後世への伝承として、門脇小から避難した日和山への距離と高さを歩いて体感することも津波の脅威と避難に要する時間や避難の効果を認識できると指摘。追悼と鎮魂の丘から日和山を眺め、歩いて体感できる動線を設定し土地区画整理事業と連携して教訓を伝承するとしている。

鎮魂の丘から海と日和山を見て、焼けた門脇小学校を眺めてから日和山に登る…というコースを作り「後世への伝承」ポイント(観光?)にするわけですね。日和山に登るルートも整備するとなると門小の坂が急に立派になるかもしれませんが、日和山への石段は神社の入り口なので、残して欲しい風景でもありますが、なにしろきつい階段ですから、バリアフリーからはほど遠し。新しい道をつけるのか???

国・県・市の役割と機能区分については、整備区域を大きく二つに区分し、主に追悼と鎮魂や、教訓の伝承機能を担う区域東側を県営公園として国・県が連携して整備。西側を市が多様なニーズを受け止める空間として整備する。

「市が多様なニーズを受け止める空間」とは抽象的な記述ですね。何でもできるように配慮しているのでしょう。

私は帰省のたび南浜町に行ってみますが、「何も無い」とはいえ、以前の道はみな残っています。その道筋が、やがてブルドーザーが入って、盛土されて完全になくなってしまうのは、門脇小学校が取り壊されることよりも寂しく感じています。かつてあった町を思い出すような痕跡が、完全に打ち消されてしまうような気がするのです。南浜町に住んでいた人たちは、どう感じているのでしょうか。

こちらを読むと「震災前の南浜地区の街路状況を公園のデザインに取り入れ、後世に伝える。」とありますね。やはりそういう要望があったのかもしれません。

河北新報 東北のニュース/「追悼と鎮魂の丘」整備 石巻復興祈念公園

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このページは、raizoが2014年1月30日に書いたブログ記事です。

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