自宅避難生活を少し体験。(その3)

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今日は帰りに牛乳があるかなとコンビニによりましたがありませんでした。あいかわらず東京のコンビニも品薄です。そして、パンの棚に並ぶヤマザキパンを見ると、配給のパンを連想してしまいました。

私が行った頃は、町内会を通じて自宅避難者へも配給があり、町内会の役員が、地区の公民館に物資を受け取りに行き、それを1件ずつ配っていました。1日でヤマザキの菓子パン2縲怩R個+おにぎり1個というところでしょうか。

その配給をしている町内会の役員さんたちも、男性ではあるのですが、正直言って後期高齢者な方ばかりのようにお見受けしました。そんなおじい様達が、坂道も多い町内を、2、3人でリヤカーを押して戸別訪問している姿を見かけ、ちょっと複雑な思いにもなりました。

その配給も、留守にしていると受け取れないから出かけられない、今日は来なかった…と、必ず受け取れるとも限りませんが、甘い菓子パンばかりですと、独居世帯にはちょっと過剰でもあり、受け取った分はすでに持て余し気味のようでもありました。さすがに1週間後には配給はなくなったそうです。

ヤマザキパンの活躍には頭が下がりますが、毎日甘い菓子パンばかりというのも厳しいですね。もっとお米が食べたいと思った方も多かったようです。避難所の方はなおさらでしょう。そうでなければカップ麺だったりしますから。

行っている間は、朝はパン(だだし、くみこさんのリクエストで、私の救援物資の中に「食パン」があり、菓子パンばかりでは無くなりました)、お昼はカップ麺系、電気と水がありましたからご飯はたけましたので夜はご飯を食べました。おかずは缶詰めや調達した野菜・果物、ご近所からのいただきもの、持ってきたレトルトカレーなど。食生活も少し良くなっておりました。それでも、男性やお子さんだったら量が少なくて辛いだろうなと思います。肉なんかも食べたいだろうと思いますし。

一度、共産党の救援物資配布にも出くわしました。ちょうど玄関を開けたときに、外で「日本共産党です、救援物資を持ってまいりました!」という拡声器の声が聞こえました。ここは私がリュックを背負って飛び出し、お米・リンゴ・バナナ・キュウリ・ハクサイ・羊羹を少しずつですが貰いました。最後の方なので種類が少なくてごめんね、と言われたけれど、パン以外のものが手に入って助かりました。

行った頃は、ガソリン不足がまだ続いていていましたが、東北道の規制が無くなり、物流が始まったかな…という頃でした。被害の少なかった地区ではスーパーもオープン。実家の地区では、大きなスーパーやチェーンのコンビニは全くないため、食べ物を買うことのできる店が少ないのですが、地元の食料雑貨店がいち早く野菜を売り始めていましたので、私も買い出しに行きました。その頃は野菜がなかなか手に入らなかったので、キャベツやトマトなどの野菜を見ただけでちょっと慌ててしまいましたが、くみこさんにその場でラインナップを電話して、ご希望によりトマトやサツマイモをゲット。

配給といい、買い出しといい、かつての戦中・戦後の物の無い時代の買い出しのようだなと思いました。でも自分の食いぶちぐらいは手に入れることができて良かった。救援物資は薬が中心だったので、食べ物はあまり持ってこなかったのです。

ちなみに、最近は野菜もだいぶ手に入りやすくなったので、次はたんぱく質が求められているようです。肉や魚ということですね。

とにかく日和山地区は、地震や津波の被害は少なかったものの、ことお買い物に関しては陸の孤島に近いものがあります。うちは車もないので、ご近所からの差し入れなどにも助けられております。私がいる間も、小松菜やほうれん草をたくさんいただいたり、遠くのスーパーで買ってきたものを届けてくれたりと、ほんとうにいろいろお世話になっていました。ありがとうございます。

門脇地区の復興はまだ時間がかかりそうですが、避難所も含め、日和山・鰐山方面の人達は「町」(中央・立町地区)のお店が営業再開することをみんな待っていると思います。露店でも良いので、これからの再出発を祈っております。

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このページは、raizoが2011年4月10日に書いたブログ記事です。

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