うまいこと連休が取れたので、石巻に帰省してきました。今回はJR東日本も応援したいということで、新幹線+バスで石巻入り。新幹線は「はやて」に乗りましたが、土曜日でしたが空席あり。スーツを着たビジネスマンと観光客少し。いかにも被災地に行きますという雰囲気の人は意外と少なかったような気がします。もっと多くのひとが東北に行って欲しいですねぇ。
仙台からは石巻への直行バスで石巻駅へ。今回はくみこさんを心配させないように、すぐにタクシー(これも地元振興策です!)で実家に直行いたしました。家で一服して、いつもの自宅の先の土手に下の様子を見に行きました。
荒涼とした状況には変わりませんが、ガレキの量はだいぶ減って、平らになっていました。土曜日でしたがショベルカーが1台、黙々とガレキをどかす作業をしています。遠く、雲雀野海岸方面には、遠くから見てもすぐわかるガレキの山がつらなっていて、ガレキの防波堤のようです。雲雀野公園の跡地は駐車場のようになっており、撤去されたたくさんの行き場のない車がぎっしり並んでいるのが見えました。
翌日は、校庭がきれいになったと聞いて門脇小学校へ。確かにあれだけあったガレキはきれいに無くなっており、自衛隊の大きなダンプカーやショベルカーが並んでいました。これまでは外から入れなかった青いプール脇にも立てました。このプールの脇に立ったのは何年ぶりだろう…。泳ぎは苦手だったのだけれど、このプールにもたくさん思い出があります。
上から見ている感じでは、ガレキの撤去は自衛隊が主体的に行っているようで、ショベルカーの誘導には必ず自衛隊員がついています。ガレキ撤去は、地方自治体ではなく国が行う…というのは、イコール自衛隊ということだったのでしょうか。平日になると、他の地域からもダンプカー(これは民間)が集まってきて、雲雀野海岸に列をなしてガレキを運び込んでいるのが見えました。
ちょうど大潮の頃でしたので、満潮になると門脇地区の道路も浸水しているのが見えました。海や川からというよりは、かつて流れていた聖人堀は暗渠になったようですので、そこから吹き出しているのかもしれません。
戦前、民家やお寺が点在していたのは、かつて漁港のあった河口付近と、主に門小(門脇小学校)の前の道沿いのみで、他は日本製紙の工場のある地域の先までが大湿地帯だったのだそうです。日和が丘も同じですが、工場が建ち、家が建ち始めたのは戦後のこと。これまでは、地域のそんな昔のことを考えてみたこともありませんでした。
他の港町の被災地と違い、元の町が復興される可能性も低く、公園にという話にもなっているようです。計画が決定されないとなにもできず、更地の状態が当分の間続きそうですが、せめてなんらかの形で、仮にでも良いので緑地化してもらいたいなと思いました。
被害の少なかった内陸部では、田植えも始まっていましたし、旧市街の立町商店街でも、思っていたよりたくさんの店が仮オープンしていました。七十七銀行の周辺にも人がたくさんいましたし、お店を訪れる人以外にも、作業員の方、ボランティアの方、片づけをしている商店街のお店の方など…震災前よりも人通りが多いような気がしました。いや、それまでがゴーストダウンのように寂しかったということなのかもしれませんが。
まだまだ戸数は少ないですが、実家の近所でも仮設住宅の建設も進んでいました。現在の建設戸数では希望数にはまだほど遠いようですが、避難所生活をされている方が、少しでも早く普通の生活ができるようになることを祈っています。
そして今週は、小牛田から前谷地でストップしていた石巻線が石巻駅まで開通し、石巻もやっと鉄路で結ばれるようになります。石巻線は電車じゃないですからね。ディーゼルですよ。次に帰省の折りは、少し遠回りではあるけれど、小牛田まわりでのんびり鉄路で来るのもいいかなと思っています。
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