辺見庸氏は石巻の出身ですので、芥川賞を取った「自動起床装置」も当時読みましたし、その後のノンフィクションも何冊か読みましたが、どんどん難しくなってきた(あれは地下鉄サリン事件以降でしょうか)ので、やがて読まなくなっていました。文章に興味はあったけれど、個人のことにはあまり興味が無かったので、南浜町出身だったことは、震災後に初めて知りました。南浜町は、流されてしまった実家の前に広がる海に近いほうの町です。
私がこの本について書くと、どうも陳腐になりそうなので恥ずかしいのですが、辺見氏の「故郷は記憶なのだ」というくだりが、あれからずっと自分が感じていた気持ちを表現してくれたような気がしました。
実際に自分が被災した訳でもなく、実家もなんとか無事で、日常的には以前と変わりない生活をしてはいるものの、この喪失感はいったいなんだろう、自分が過剰に反応しすぎているのではないか…と思う事もたびたびあります。これを読んで答えが出たということではないけれど、そういうことだったのかもしれない…と。記憶の深さ、大きさ、重さがいかに自分にとって大切だったのかということです。
暮らしていたのは丘の上ではあったけれど、学校もふだんの買い物も遊びに行く先も、いろんなものが下の町にあって、1番多感な子供の頃の記憶の多くがそこにあり、私にとっても大きなものであったということ。その喪失感と、実際に被災していない事による現実とは思えない光景がごちゃまぜになっている感じ。エラそうなことを言っても、どこかで実際に被災された方々への引け目もあって、気持ちはさらに複雑になるのです。
そして話は「3.11以降、内心の表現が以前よりさらに窮屈に、不自由になっている」「個人の言葉が自由を失っている」というところに移っていきます。辺見氏も、震災後の発言でバッシングを受けたそうですが、そういう翼賛的な今の日本の風潮も含め、文学者、表現者として震災後の「言葉」について考察しています。このあたりも、何といったらピッタリ来るのか自分の表現力の無さにがっかりしますが、心の中で共鳴したといいますが、そんな印象を受けました。
3.11以降、なにか世の中の表現が上っ面な感じがしていたのは、この不自由さが故もあったのかもしれない…と思いながら、1度では消化しきれなかった思索をもう一度咀嚼すべく、また読み直しています。
こうなるとやはり高見順賞受賞のこちらの詩集も読まなくてはいかんかな。(この新書にもこの中の詩のいくつかが引用されています。)
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