山下祐介「東北発の震災論」主体性を取り戻すことについて。

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東北発の震災論: 周辺から広域システムを考える (ちくま新書)
山下 祐介
筑摩書房 (2013-01-09)
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「周辺から広域システムを考える」が副題。最近読んだ震災モノの本の中では、共感できる話が多い内容でした。あまり話題になっていないのが残念ですが、自分が復興の過程にモヤモヤしたものを感じていた理由が少しわかったようが気がします。

最終的に「正解」が出るわけではないのですが、著者のもう1つの新書の近著「限界集落の真実」と合わせて読むとまた更に理解が深まると思います。

たびたび記述にでてくる「広域システム」。たとえばシステムのすり鉢の底にいるのが都会の人たち。すり鉢の縁である「周辺」が、限界集落であったり、今回の被災地であったりします。

すり鉢の中心にいて周辺のことが見えない(知らない)人間が、周辺を含めたシステム全体のありようを決定していく。周辺にとっての重大な決定もしかり。中心と周辺は一体化してきました。中心からは周辺が見えておらず、結局は「他人ごと」なのだと。これは「限界集落の真実)」で述べられていました。

この本では、筆者の住んでいた弘前市の田野畑村への支援、福島の原発事故にまつわる話、そして広域システム災害の特徴をよく表している地域(混乱を極めている悪い例ということですね...)として石巻市などを登場させながら、復興の現状を紹介しつつ本題に近づいて行きます。

たとえば「復興」とはなにかというところではこんな論が展開されます。(珍しく自分で要約してみました)

自治体は早く・多く予算を取る方向に進み、早くとりかかることが住民にとって大切だと考え、事業計画だけがどんどん進行し、住民が取り残される。その一方で、復興が遅いと住民からは不満が出る。

しかし「住民」とは誰か。それは「目立つ声」「声の大きい人の声」であって、案外とそれはごく一部の人であって、さらにそれが地域権力構造にコミットしている人であったりし、土建業など公共事業につながっている人であったりすることが多い。そして高齢者は、高齢者対策を重視し、これからの若い世代にの意見を反映する場が少ない。

巨大防潮堤や高台移転が防災の唯一の方法ではないのではないか。それが完成しても、誰も住まなくなってしまっては防災対策の意味が無い。しかし復興計画専門家やマスコミが絡み、住民は専門家に対して異論を挟むこともできず。現地入りした専門家は地元の生活の全体像を知っているわけではない(これも底の人ですね)のに、やはり重要な決定を行なっている。

結局「こういう自体だから仕方がない」と本意でないはずの結論へと全体が導かれているのではないかと。「周辺」の主体的な選択を装った中心側からの周辺の切り捨てではないか。

...次々といろんなコンサルタントが来て、いろんな計画を(委託を受けた)都会の人たちがやっていて、地元の意見を申し訳程度に集め、きれいなパワポのプレゼン資料(私の嫌いなモノの1つ)ができあがっていく過程は、まさにこの広域システムにぴったりはまっております。地元の意見を聞くというよりは、これまでの経緯や現状を総合的に分析した上でのことだと良いのですが、ほんとうに地元の実情に合っているのか心配でもあります。立派なプレゼン資料に惑わされてはいかんのです。

そして「ボランティアと支援」については...

ボランティアについては、東北社会がボランティア=NPOの面で全国的システムの周辺にあり、自主的な市民活動領域の弱さとして現れたのではないか。中心に対する周辺の従順主義。そして結局は支援者がやりたいことを提示することになるが、時間が経過した今、本当にして欲しいことは、支援者にできることを超えたことではないか。(支援の引き際も大切とも...)

震災前から「主体性」は失われつつあったが、被災地では主体性の復興が必要であり、これは支援者には応えられない。「支援」も、する側とされる側として、中心と周辺の関係が形成された。あらゆる領域に関わり、人々を集め、共同へ向かわせる支援の動きは見当たらない。復興へ向けた支援をしたいなら、この「支援」という領域から抜け出ることが必要なようだ。そしてシステムを人間にとって使い勝手の良いものに作り変えていくチャンスでもある。

広い意味で「支援」の時期が終わっているのは理解できます。今の支援活動が、たっぷりついた復興予算・補助金にぶら下がるモノであっては少々困ります。NPOの事業が稼げる商売になっていたりしないでしょうか...。

そして、最終的には「主体性」を取り戻すことが必要だという結論になります。

政治システムではなく市民社会の中に主体を作るべきで、小さな共同体の意志、当たり前の日常が、日本社会にとっての主体性なのである。「東北」も漠然とした共同体として主体行動を導くことができるはず。人々が集合化することによって主体が成立する。その主体が国や科学・メディアを利用するようになれば、システムが我が手に戻ったと言える。

しかし集合化といっても「絆」という言葉が状況を難しくしている。実際は首都圏の人は地方のことを理解しておらず、東日本と西日本、宮城と福島、仙台と石巻、浜通りと中通りは全く違う。決して1つにはなれない。

ならば「くに」に概念を呼び戻してはどうか。国ではなく「くに」。論理的に説明できない本質的なものであり、この震災の中で見えてくればと思う。

「ここになければならないもの」
「この場所だからこそ生まれてくるもの」

それが我々を主体にする根元にあるもののような気がする。このような思考法は文化や言語の中に潜んでいて、普段は気づかないが、実は深い所で作用している。

「くに」という概念は、漠然とわかるような気がしますね。まず根本の方向性を決める際に、一番わかりやすいのではないかと。そして、いつの間にか主体性が無くなってしまい、都会と同じような「システム」を持ってこようとするケースも観られますが、それが地元でうまく成り立つこともあるでしょうが、画一的に全ての地に当てはまるものではありません。どうもですね、いろいろな計画や動きをみると、地元の主体性が失われていく方向に進んでいるところも多々あるようにも思うのです。

たとえば新しい街を作る計画があります。便利なニュータウンってすごく未来があるように思えるけれど、意外と都会でも問題を残しているわけです。それは東京でさえもです。街づくりにも「主体性」をもって地元ならではの視点を入れる必要もあるのではないかと。

そしてこの本も、あくまで「論」であって、具体的な方策を呈示してくれるものではありません。そうですよ、それぞれの「主体性」が必要ということですから。これからそれぞれの市町村がどのように主体性を発揮できるのかが、将来に向けての重要なポイントですね。いろいろ考えさせられました。

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